ハンセン病患者のコロニー 2日目

6時前起床、まだ外は薄暗く肌寒い。
同行の日本人女性と食堂に行ってチャイを飲んだ後、
“手当て室”へ。
ここでは、ハンセン病を患って末梢神経が侵された結果、
手先や足先の感覚を失って怪我をしやすくなり、
傷の治りも悪いために傷口が大きくなってしまった患者たちの
傷の消毒と包帯交換を毎日朝から行っている。
手当てをしているのは、トレーニングを受けた元患者たちだった。
手当ての知識がない人も補助的な作業を任され、みんな
熱心に自分の仕事をこなしていた。


手当てはそんなに難しいものではなかったので、
何人かの患者さんの手当てを見たあと、私も4、5人くらいの患者さんに
手当ての体験をさせてもらった。
同行の日本人女性は先月末10日間くらいここで手当てのボランティアを
していたそうで、最初は上手くできなくて、患者さんに注文をつけられたり、
頑固な患者さんに拒否されたりしたそうだけど、
もうすっかり慣れている様子で、患者さんの顔もだいぶ覚えているようだった。


患者さんたちは、やはり日本同様、差別を受け社会的に迫害された経験を持つ人が多く、
そのため結婚もできなかったため、恐らく人生の大半をここのコロニーで共同生活して
過ごしている。
そして病気の初期段階で治療を受けられなかった60代くらいの人が多い。


彼らはみんな朝早くから、敷地内の居住区から、不自由な足をものともせず、
ゆっくり歩いて手当て室までやってきて、4台ある手当てのためのベッドに
みんな空いた順に上がって、そして手当てを受ける間おしゃべりしたりして
そしてまた帰って行く。
みんな概して明るく、共同生活の空間は見た限り、人口密度が高くて
それほど居心地がいいようには見えなかったけど、それでも特に生活に不満があるようにも
見えず、みんな目の前にある人生を当然の如く受け入れているように映った。
それは幸・不幸を同等と見なすヒンドゥーの古い教えを思い起こさせた。


8時半頃になって朝食を摂り、その後、敷地内にある耳の不自由な子供のための
学校に見学に行ったり、眼科の病院に行ったりして過ごした。


お昼の後、同行者が午睡している間、ひとりで事務所近くの売店へ、
昨日見ていいなと思っていた、このコロニーで作られている綿製のサリーを買いに行った。
そしたら昨日の店員が、あのサリーなら別の人が買って行ってしまったよ、と教えてくれた。
買おうかどうしようか迷っている間に、1点物のサリーはなくなってしまった。
その後、辺りをぶらぶらしていると、通りでおそらくコロニー内で共同生活する
高齢の患者さんに出会った。
もしかすると朝、手当て室で会ったのかもしれない、挨拶を交わすと彼女は私の手を取って
どこかに向かい始めた。
ここにいる人は、やはり母語のマラティー語を喋り、そして半数以上の人が
ヒンディー語も話せる。
そのおばあちゃんもヒンディーを話すようだったけど、どこに向かうのかよくわからない。
しばらく歩いて、集会所前の木陰に恵まれた広場に着いた。
おばあちゃんはそこに腰掛け、私にも座るよう促した。おばあちゃんのお気に入りの場所
なのかもしれない。
特に話をするわけでもなく、持っていた携帯電話でおばあちゃんの写真を撮って
見せてあげたりして過ごしていると、家族で見学に来たグループに出会い、
写真を一緒に撮ったり、おしゃべりしたり。
そうこうするうちに、おばあちゃんは集会所の中から声が掛かり、中に入って行った。
どうやら、彼女はここのお掃除係をしているらしい。


ゲストルームに戻って、同行者を伴ってお茶を飲みに行き、その後病院を見て周り、
午前中行った学校のほうへ行くと、子供たちはすでに放課後で、女子はドッジボール
男子はインドの国技、クリケットに興じていた。
ドッジボールにしばらく加わった後、女性ばかりが共同生活する住居へ行き、
そこでおばあちゃんたちにマッサージを施した。
おばあちゃんたちはマッサージが大好きみたいで、私はマッサージの仕方を知らないのだけど
同行の女性が持参したココナッツオイルで、私も2人のおばあちゃんにマッサージした。


その後、18時になってコロニー内のバンで駅まで送ってもらい、21時頃帰宅。