ポンディチェリー 6日目

朝、ダイニングホールで朝食をとり、帰り際、雨が降り出した。
マハラシュトラでもこの時期雨が降っているのだろうか。
南はたまに小雨が降る。


一旦部屋に戻り、洗濯などして10時、外出して町を散策。
いつも、ゲストハウスの門を出て右に歩いていたのだけど
右を真っ直ぐ行くと、大きな道路に出るから右に折れてたのだけど
左に行くと、何かいいことないかしらんと思い、今日は左のほうに
行ってみた。
ローカルな安食堂がないか探して歩いたけど、結局あったのは
地元人の居住区と、ちょくちょくある野菜も売る小さな雑貨屋、
そしてそれらを周りに従えた古そうなヒンドゥー寺院だった。


陽射しの強い中、てくてく歩いてやがて大きな道に出て、
そのまま賑やかなほうに向かった。
市場周りに辿り着き、ポンディではもうすでに見慣れたパン屋さん、
しかしふとショーケースに目をやると、
20センチくらいの長さのフランスパンのようなのがたくさん並んでいる。
パンの名前の表示はない。
5ルピーで買い求め、パン屋のおじさんが新聞紙で包装して
インド式に糸でぐるぐる巻いて留めて渡してくれたパンは
まだ焼きたてらしく、温かくて外側のパリッとした固さが伝わってきた。
歩きながらさっそくちぎって食べると、それはやっぱり
フランスパンだった。ストレートに美味しい。
外はカリカリ、中はしっとりとして弾力性に富んだ
完成されたフランスパン。
インドで“パンっぽいもの”しか食べたことがなく
美味しいパンを諦めていた私にとって衝撃的だった。
そのパン屋さんのショーケースには、他にも雑穀系の大きめな
ベーグルのようなのと、小さな直方体の食パンも売られていた。
明日はポンディを発つ日だけど、時間があればもう1度行きたい。


食べながらそのまま、ポンディの市場のコアなところを歩いた。
元仏領ポンディも、市場のコアなところはやはり非常にインド臭く
なんだか安心し、嬉しくなった。
でもポンディの商売人たちは、英語もヒンディーも喋れない人が
非常に多く、その結果、意思の伝達、大事なコミュニケーションが
とれず、挙句、問い掛けても無視されたりする。


市場を冷やかしてスルーして少し歩くと、通りの反対側に
買い物帰りに休憩に立ち寄った、といったふうのインド人女性客が
たくさん座っているインドの甘味処を発見。
通りを渡り早速入ってみると、そこはクルフィーと呼ばれる
インドのアイスクリームが売りらしかったので
5種類のオリジナルクルフィーの中から、無難そうな
チョコレートクルフィーを頼んだ。
お店にたくさん人が入っているだけあって、今まで食べた
クルフィーの中で一番美味しかった。
クルフィーの一番の特徴は卵不使用であること。
ベジタリアンの多い国ならでは。
それでも空気がたくさん含まれて口当たりがよく、
ミルクたっぷりで甘くて美味しい。


そこから程近い場所に、店先に足こぎミシンを出して
衣類などの修繕をしている店ばかりが並んだ通りに入った。
座っているのはもちろん男性のミシン職人ばかりだ。
持ち込んだトップスを何箇所か修繕してもらった。20ルピー。
町から町への道中、バックパックの負荷に対して衣服の強度が弱いから
摩擦などですぐに服の生地が薄くなったり穴が開いてしまう。


ワルダーの学校の守衛さんの一人に、土産にセーターを買って来て
くれ、と頼まれていたのでセーターを探した。
こんな暑いポンディでセーターなどあるかしら、と思って
紳士物の衣類を扱う店を覗いては尋ねていたら、数件目の店で
やっと取り扱っていた。しかもスタッフがヒンディーを喋る。好都合。
ふわふわの茶色のセーターを買った。


そのうちに、先日予約した半日観光ツアーの集合時間13時半前になり
そのまま移動して、観光バスに乗り込んだ。


市街地から10キロ程離れた場所に、オーロヴィルと呼ばれる広大な
実験都市がある。
哲学者オーロビンドの思想に基づき、彼の愛弟子であり画家の
フランス人女性(国籍はフランスだがエジプト人の父とトルコ人の母の間に
生まれたハーフ)ミラ・アルファッサ、通称マザーが作り始めた都市。
ここはどの国家、民族、宗教にも属さず、地球環境と人間精神の調和を
目指したユニバーサル・シティ(世界都市)。
インド政府から半自治的な地位と援助を与えられている。
インドではチベットにも自治区を与えたりしていて、
こういう懐の深さがインドという国の魅力の一つであって、
いろいろ困難も内包しているけど、もっとも未来に近い国だと思う。
「人類が生活するという夢を見始めた太古の昔から、
全ての人間がこの地上にひとつの憩いの場所を見つけたとすれば、
それはインドである。」と言ったのは、かの文豪ロマン・ロラン
ちなみにオーロヴィルは国連のユネスコからも援助を受けている。


オーロヴィルにはおよそ40ヶ国の人々が寄り集まって、それぞれ
なんらかの労働に従事し、また内部に独立した子供の教育制度も
もっている。
白人が目立つけど、構成メンバーの大半はインド人で、
以下、フランス人、ドイツ人が多いそう。日本人も数名暮らしている
という話だった。
村の中心部に象徴的な建造物があって、その周りを太陽系のように
螺旋状に都市設計がなされていて、私は何より建築設計に興味を
ひかれた。かなり優れた建築家がいるようだ。都市プランもそうだし
建築物がいちいち垢抜けている。


ツアーでは、そのオーロヴィルの概要のビデオを見て、
象徴的な建造物、マーットリマンディールの概要のビデオを見て、
そのものを見て、村のプロダクトを扱うきれいなショップを見て
(どれも日本と同じくらい値が張っていた。)終わりだった。
外部に接するスタッフはすべてインド人だった。


共感する部分はあったけど、大雑把に言えば、結局白人の
ユートピア的なにおいがした。直感だけども。
オーロビンド・アシュラム本体(あえて本体と呼ぶなら)と
村との間でそれぞれに派閥のようなものが生じてしまったあたり、
やはりどんなに融合・融和という理想を目指す人々の間にも、
個人のこだわりやら譲歩できない部分があるのだと思うと、
究極的な部分には結局至れないんじゃないかと、結論を見た気がした。
うまく言えないけども。
それを思うと、牛肉料理を扱うヒンドゥー教徒の飲食店なんかは
なんかタブーなんだけど妥協がギリギリアウトのとこまで入ってて、
興味深いと思う。コーチンのあの店、気になる。


紹介ビデオで、白人が陶芸をしたり、柔道をしたり、剣道をしたり
していたけども、私はそのどれも知らないのが、何となく残念な
ような不思議な心持ちがした。


ツアー中、同じマハラシュトラからやって来たという
年配夫婦2組連れと仲良くなり、グループに仲間に入れてもらった。
私は久々にヒンディーが自由に話せる人に会い、嬉しく、
彼らも私がヒンディーを学んでいると知り、喜んでいろいろ尋ねてきた。
男性の1人は、インド映画産業のメッカ、ムンバイで長年
映画の編集に携わってこられたベテランの方で、
今はもう引退されているそう。
ちなみにムンバイ(ボンベイ)は“ボリウッド”という、
“ハリウッド”をパロったネーミングもある。
映画関連の記事ではしょっちゅう目にする。


もう1人はバンク・オブ・マハラシュトラに勤めている銀行員、
たぶん役員クラスだけど、そこまではおっしゃらなかった。
その方の奥さんは短い時間だったけど特に親しく接してくださり、
オーロヴィルのあと付け足すように組み込まれたヒンドゥー寺院見学で
一つ一つの神様のことをあれこれ教えてくれたり、
ヒンディー語の後はマラティー語(マハラシュトラ州の母語)を
学びなさい、と言って笑っておられた。
ほんとに気さくでとっても感じのいい2組のカップルで、
そのあと、オーロビンド関連の野外イベントを一緒に見に行き、
そのままダイニングホールで一緒に夕食をとった。
別れ際がなんとも名残惜しく、行員の男性が、私たちはあなたを
離したくないんだよ、などと笑って、いつまでも道端で立ち話を
していた。


明日はいよいよ移動日。


ポンディチェリー、フランス語読みでは“ポンディシェリー”、
現地の通称として“ポンディ”とも。
ポンディ。はは。なんかかわいい。