浄・不浄

そういえば昨日、コミュニティーで生活してる日本人女性のお部屋で
ジャスミンティーを淹れてもらったんだけど
急須に茶葉を入れ、沸騰したお湯を彼女が注いだので
私が急須にふたをしようと手に取ったとき、彼女が言った。
「足触った手で触らないで。」
一瞬びっくりしたけど、思い起こせば、そういえば
足指に塗ったペディキュアを何とは無しに、さっきいじってたんだった。


日本だったら、足指いじった手で食器触ったりとか
ゼッタイしてなかったと思うんだけど
インドに来て半年が経ったこの頃では
そういう“汚い”感覚がどんどんぶっ飛んでいってるような気が
しなくもない。


彼女はインド暦30年くらいなんだけど、コミュニティーにいる人とか
彼女が出会う人が、なにかとブラフマンヒンドゥーカースト
最高位)の人が多く、日本では“汚いインド”と思われがちですが
実際“汚い”、言い換えれば、浄・不浄の観念が曖昧、希薄なのは
下級カーストの人たちで、ブラフマンなど高いカーストの人たちは
浄・不浄の区別がかなり厳しい。そんな人たちを見て生活している
その知人なので、私みたいに浄・不浄がいい加減になったりせず
逆に日本よりもさらに明確な浄・不浄を意識している感じがした。


そしてわが身を振り返れば、私は下級カーストの人々や、
もともと不可触民だった家系の仏教徒に囲まれて暮らしているために、
“彼らの”浄・不浄意識にすっかり浸って
その習慣に慣れつつあったんであった。
そのことに今さら気が付き、驚きと共に納得。


宗教間の融和という理想、ベジタリアン・ノンベジタリアン
ヒンドゥーカーストヒンドゥー至上主義、そして浄・不浄。
私の目を通すと、視界のあらゆる片隅から矛盾が噴き出して
意味のわからない混沌とした濁流となって目の前を流れ、
私はただ呆然と突っ立っていた、路傍に立ち尽くす牛のように。